同級生T. K.さん



やっと満開になった桜

私の高校は 東京都立駒場高等学校、今は知らないが、当時は女子系でも有数の進学校で、現役東大合格者も年に数人いた。

家からも歩いても行かれる距離で、教員志望で公立大学の付属高校を希望した私に対して、教師が勧めた学校だった。

たった3年しか在籍しないのに、まるで一生分の思い出が集積されているような気さえする。

今、考えてみれば、この3年間の自分の処し方次第で、一生の決まる人も多いのではないか?と、さえ思う。

高校時代は、確かに勉強も大切だが、様々な事柄を知ること、友とか周りの大人の考え方次第で、一生は決まる気もする。

受験校だつたので、生徒の9割以上はそれぞれの大学に進んだが、残念ながら、我が家は一番貧乏な時代だったようで、3年下の弟のために、母親は全てをかけていたらしい。
もちろん、兄も弟も一流大学を出ている。

それでも、もしも何かを勉強したいと熱意さえあったら、何としても進学していてはずなのに、このあまり拘らない性格、なんとなくのホホホ〜ん、と過ごしてしまつた。

Chimera Zheneczka

受験を諦めた高校時代は、本当に楽しかった。夏休み中、学校のプールに通い詰めて、真っ黒になったことも…

「あなたを探すのは簡単ヨ。学校中で一番黒い人を探せばよいのだから…」とからかわれたことも。

水泳、山登り、かなり活発なオンナノコだったような気がする。

それでも、さすがに進学校なので、先生は、私に合うと思われる大学を数校紹介してくださって、見にも行った。

ただ、学資がないのだ。
親に出してもらえなかったのだ。

親が、私の進学を拒絶したのだ。

日本が高度成長期に入る前、一番貧乏だった時代なのだから仕方がないかもしれないが…。

今、現在なら「奨学金制度」等も整備されているが、昭和37〜8年では、制度も徹底していない。

教師からの推薦もなかった。

明治生まれの父母は「女なんか学校へ行く必要はない」という主義。

今にして思えば、もっと自己をしっかり持って、何がしたいのかという目標を持っていたら、全く違った道を歩いていたと思う。

普通の大学進学を諦め、一流企業に就職して貯金して、高校の推薦で入れる短期大学を目指した。
入学金を貯め、学資は働きながら払った。

今のように、奨学金制度も充実していなかった時代なので仕方がないなかった。


と、ここまで自分の事ばかりだったが、高校の同級生T. K.さんは、違っていた。

現役で東大に進学、そして学生運動。聞くところによると、高校の頃からだったようだ。

自分の考え、主義、主張をしっかり持った人だった気がする。一年のときには、同じ机(昔の机は繋がっていた)に座ったこともある。

でも、彼女が優秀過ぎたのか何なのかは解らないが、特別親しくなることもなく(相手にしてもらえなかったのかも…😆)卒業と同時に別れたままだ。

ずっとテレビで時々見ているので、私は彼女を知っているが、このお婆さんを、覚えてはいないだろう。

旧満洲から命からがら帰国したことは知っていた。
まさか、ロシア語まで堪能とは!!

でも、彼女ならあり得る。

シャンソンで名を挙げたが、歌も飛び抜けて上手だったわけでもない。
一緒に二重唱したのでよく知っている。

ただ、あの熱意は常人には計り知れないものがある。

ごく最近、満洲からの引揚者だったことと、ロシアでもコンサートを開いたことをNHKのテレビの中で語っていた。

華やかな衣装が、私のイメージとはかけ離れてはいたが、苦労を重ねた彼女の今なのかもしれない。

何気なく、過ごしてしまう高校3年間。

自分が何をやりたいか、何に適しているかを、側で見て、アドバイス出来るのは、両親にほかならない。

生憎、私の両親は娘の教育に無関心だったので、今の私の姿がここにある。

残念だったことは唯一、植物に異常な興味を持っていた私を、母親が見抜けなかったことくらいか…

貧乏は、慣れている。
でも、食べられるし、借家ながら家もある。

ただ、私自身、苦労は並の3倍はしているだけに、人の涙には心打たれる。

T. Kさんは、今どんな形で反戦活動をしているか解らないがあり、多分何かをやっているに違いないと思う。

私に出来ることは、花を売って、寄付をすることだけ。

考え方も、道もみんなそれぞれ異なる。

それぞれができることを、できる形でやっていくだけだ。

それが、私達に敷かれた「人生のレール」なのかもしれない。

神様は助けてくれないのだ。道を示すだけ、最近やっとそれが解ってからは祈ることもなくなった。


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