10年前のあの日…

10年の間に…

全てが変わってしまった…

ゴルフ⛳🏌を楽しんでいた夫は亡くなり、私は三度も引っ越して…

今やっと落ち着いたのだ。
変わらないのはセントポーリアだけだが、情熱は失せてしまった。


Vat-Mirnoe Nebo


10年前のあの日、夫と私は茨城のゴルフ場にいた。何にも知らずに…、

震度6⇡

波打つ地面、そして地鳴り…初めての経験だった。目のまえで地面に亀裂が…立っていることは出来ず、地面にはいつくばった。
誰しも、みんな初めての経験だったかもしれない。

携帯で、電話しても全く通じない。

当時はインターネットにも接続してない、完璧なガラ系の携帯電話で、何度も電話しているうちに私の携帯は電池がなくなってきた。

何が起きたのか皆目解らずに茫然としていると、ゴルフ場の人が、車で回りながら大声で「上がってくださーい!」と叫ぶ。

何が何だか分からないまま、フロントで精算しながら聞いたのは
「大きな地震らしいですよ!テレビも消えてしまって…???」ということだけ。

電気が通じないから、もちろんテレビも消えている。

状況が飲み込めたのは、主人と車に乗って、車のラジオ📻をつけてからだった。

聞いて体が震えた。
怖かった。

大きな津波が来る。
しかし、ここは🌊からかなり離れている。
きっと大丈夫。

こんな時は、自分のことしか考えられない。
一刻も早く家にかえらねば…

急いで高速道路に向かったら、大渋滞。
もちろん間もなく高速道路は通行止めに。

一歩早ければ、何とか高速に乗れたかもしれなかったが、目の前で高速道路に入ることができなかった。

車に乗っていても感じる程、大きな余震が続く。左の方に何だか変な雲が…
茶色い地面を這うような雲☁

夫が「何だか変な雲が出ているぞ!」と走りながらも冷静に周りを見ていたようだ。

後で知ったことだが、☁ではなかった。

津波による土煙だったのだ。あの下でどれほどの方が被害を受けたことだろう。多くの方が亡くなられていたのだ。

国道16号の利根川にかかる橋に差し掛かった頃にはすっかり日が暮れていた。

橋の上で、ラジオで利根川下流の橋が落ちた
という話を聞いた。
その間も余震で橋がガタガタと音を立てて揺れ、電線が波打ち、橋に付いているライトが揺れた。
一体橋の上には何代の車が乗っているのやら、本当に動かないのだからどうすることもできなかった。何百台もの車が今橋を渡っている。かなり重いはず。
それでも、10分に1m程度は、東京に確実に近付いていた。

あれ?道路の明かりは点いていたのだな!

橋を渡りきった時は何か少し安堵した。

柏〜どこかに友達がいる、でもこんな時には、友達は関係ない。

私自身も小刻みに震えていたが、車のハンドルを握っている夫を必死に励ましながら、必要以上に饒舌になっていた気がする。

東京から歩いて帰宅する人びとや「災害派遣」という横断旗を掲げて、被災地に向かう自衛隊員を乗せたトラックにも何台もすれ違いながら、14時間以上掛かって、東京に着いた時には、夜が明け始めていた。

全てをまるで昨日のことのように憶えている。

いざ着いた時、エレベーターが止まっていたので14階まで重いゴルフバッグを担いで登った…

さすがに今の私と同じ歳の夫にはさぞ辛かった事だろう。しかも14時間以上車を運転した上でのこと。

我が家ではたくさんの書類が床に落ちて、セントポーリアが、何鉢か棚から転落した以外大した被害はなかった。

夫の体力を褒めていたら、翌年発病、更にその翌年亡くなってしまった。
地震で仕事が全くなくなり、苦境に立たされていたのだ。

夫が亡くなって、そしてのんびり屋の私の波乱の人生が始まった。

引っ越しも東京から千葉へ、そして更に2度も…

今、10年経って、やっと気持ちに落ち着きが出てきたかもしれない。

私の人生、これからよ!

とは思ったが…腰が痛くて思うように動けないのが辛い。

かかりつけ医からは「運動不足」と言われるし…

この、コロナの中、どうすりゃいいのか?
歳には勝てない。

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