追悼の明かり:3月11日
6号線を東京に向かっていました。
体中が震えていたことを思い出します。
必死にハンドルを握る主人のそばで、勤めて明るく、でも必死にただただ無事に
家に帰ることだけを考えていました。
でも・・・・どれほど多くの人々が、愛する家族の元に帰ることも出来ないまま亡く
なったり、また帰ろうにも家が津波で流されてしまって、帰ることもかなわない
でいたことでしょう。
ラジオのニュースからは、信じられないような事実が流れていました。
実際、家に帰ってテレビで見るまでは、3時間後にやっと通じた電話で、甥に話
を聞きながらも信じられないでいました。
茨城県の取手市から家に帰り着くまで、何時もならば1時間ほどの距離をなんと
14時間半掛かって帰り着きました。
途中で休んだには、空腹に耐えられずに寄ったイタリアンレストラン(営業して
いてくれて有難うございました)と、ガソリンスタンドだけ。
当事77歳の主人はよく頑張ってくれました。
家で留守をしていてくれた甥は、電車が止まって帰ることも叶わず、老インコ達
の面倒を見ていてくれました。
日ごろ、小さな地震でもパニックになるオカメインコは、案の定大パニックで、
相続く余震におびえて、見えにくかった、左目は完全に失明してしまいました。
でも命がありました。
一年経った今も、飛べないけれど元気です。
私たちも、震災以来仕事がなくて貧しいままですが、それでも元気です。
地震や津波で亡くなられた方々に、衷心から哀悼の気持ちをささげます。
私は若くはありませんが、この日を過ごして決心しました。
残された日を、誰かのためになるように、有意義に送りたい。
そう思って、いまもセントポーリアのネット展示会を開いています。
参加者が少なくて残念ですが、頑張ります。
私の気持ちが多くの方に伝わって欲しいと願っています。(2012年3月11日)